雑学豆知識

大人の学習豆知識【社会】江戸初期の横浜

横浜には宿場があった

江戸時代初期の横浜

東海道の宿場の起点は日本橋。そこから3つ目~5つ目に当たる宿場は、現在の横浜市にありました。

神奈川宿、保土谷宿、戸塚宿です。

今回は、徳川家康が整備した『東海道』と横浜市にある宿場についてお話していきたいと思います。

東海道横浜宿場

横浜の歴史で思い出すこと

横浜の歴史といえば、真っ先に思いつくのが黒船来航ですよね。

1854年、アメリカ海軍提監ペリーが、黒船を率いて日本への2度目の来航に横浜港を訪れたことで有名な史実です。その後の会談で日米和親条約が締結されました。

横浜宿場

江戸時代の始まりは徳川家康が征夷大将軍に任官し、江戸を本拠地とした1603年。黒船来航は1868年で江戸時代末期。ペリーが来航するまでの横浜を取り上げることはあまりありませんが、どんな感じだったのでしょうか。

江戸時代の横浜は特に重要な役割を果たしていなかったのかな?
rico
rico
確かに横浜はほとんどが長閑な村でしたし、江戸城からも遠からずも少し離れているので、そこまで重要な要所になるとは思えませんね。

しかし!

あれこれと調べていると、徳川家康と横浜の関係で、驚きの事実がありました。

江戸初期の横浜

1600年の出来事といえば関ヶ原の戦い。

関ヶ原の戦いといえば、石田三成軍対徳川家康軍ですよね。石田三成軍というよりは、反徳川家康軍という感じでしょうか。

有名な屏風絵『関が原合戦図屏風』のような戦いが繰り広げられたのは1600年10月21日といわれていますが、家康が江戸を出立したのは、同年9月1日であるとされています。

横浜の宿場

関ヶ原の戦いについて調べていると、家康が江戸から関が原まで向かう途中に船も使ったという説がありました。

1600年、徳川家康が『国一丸』という軍船に乗船して武州金沢から、あの関ヶ原の戦いに向かったというのです。

ほ、本当なのでしょうか?????

rico
rico
調べてみたところ、家康は水軍も使っていたことは確かなようです。『国一丸』は徳川家康を送迎するための御召船。関ヶ原の戦いにそれに乗っていったかどうかは、現在調べている途中ではありますが、多くの資料はみつけられていません。(今後わかったことがあれば追記しますね。)

東海道の整備

江戸時代家康が成した仕事のひとつに『東海道の整備』があります。家康は、江戸城と朝廷のある京都との連絡を素早く行うことができるように、東海道を整備しました。

江戸初期の横浜

1601年に『東海道宿駅伝馬の制』が定められたのですが、その際に横浜には神奈川宿と保土谷宿、その後1603年に戸塚宿が置かれました。

神奈川宿は神奈川湊を臨むの宿場町。保土谷宿は箱根駅伝でも有名な難所『権太坂』へと向かう前の宿場。そして戸塚宿は日本橋から旅程の1泊目にあたる宿場だったため、多くの旅籠があった宿場です。

横浜は、ほとんどが幕府の直轄領や旗本知行地の村で、宿場町以外は、長閑な村だったようですが、瀬谷区などには将軍の鷹狩りの場になっていた所もあったようです。

まとめ

江戸時代初期の横浜は、

・ほぼ幕府の直轄領や旗本知行地の村。
・将軍の鷹狩りの場になっていたところがある。
・3つの宿場があった。

という感じですね。
それぞれの宿場跡は現在どのような様子でしょうか。
どの宿場跡も横浜駅からすぐなので、ちょっとした『ひとりでお出かけ』にぴったりですよ。
それぞれのコースのご案内はこちらです。

神奈川宿へひとりでお出かけ

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